2012年3月28日水曜日

陽は又昇る(南三陸町歌津岬の初日の出です)
平成24年3月に記す。
私たちのコンセプト
平成23年3月11日の東日本大震災で壊滅的な被害を蒙った東北の被災者に一人ひとりの思いを一箱のダンボールに込めてじかに送り届ける。
このブログはその仲介役に過ぎません。
 「人々の思いをつなげたい」
ただ、それだけの支援プロジェクトなのです。
震災から丸一年が経過しましたが、私たちは支援は東北を忘れていないことの証だと思っています。「心の励まし」だと思っています。
支援の先には物資を受け取って下さり配布して下さった現地「世話人」さんがいます。
世話人さんとの触れ合いを財産に今後とも人々の思いをつなげていきます。


支援の例これらはあくまでも参考です。
【食糧・嗜好品】 ・米、肉、卵、蒟蒻、豆腐、味噌、醤油、調味料 ・新鮮な野菜
・たばこ、お酒(お酒はどこでも大歓迎されます)
【生活用品】
・洗剤、シャンプー、はみがき、「ミシン」、「アイロン」
【衣類・化粧品】
(
女性は御洒落好き)


支援の方法 ①当方にメール(この投稿の一番下から)②送りたい物資の内容を明示して現地世話人の住所氏名を聞くヤマト運輸の宅急便、郵パックなどで被災者に物資を直接送付
到着の有無は本サイトで確認

リピーターの方は事後に連絡してくだされば結構です。

現在の主な支援先
南三陸町の仮設住宅(志津川、入谷、小森、袖浜、泊浜等)
南三陸町の自宅避難地区(戸倉寺浜、歌津田の頭等)

気仙沼市本吉町の仮設住宅、自宅避難地区(津谷、小泉地区等)


当方へのメールはこちらから
私が物資の支援を提案する理由 平成23年4月7日
 

 「3・11」の大震災の現場を見るため、4月に入ってすぐ救援物資を車に積んで原発20キロ圏から30キロ圏の福島県南相馬市と宮城県南三陸町を訪問しました。
 それぞれに多くの問題を抱えていまして、南相馬市は津波で多数の死者を出したほかに原発事故で「自主避難」が発令されてこの先どうなるのかと困り果てていました。南相場の住民は全国300か所に分かれて避難、それでもなお2万人近くが自宅に残り、物資の流入もないなかで屋内退避しているのが実情です。放射能の影響で行方不明者の捜索が行われないといった問題も出ています。 これに対して、原発の問題こそないものの津波で町全体が根こそぎもっていかれたと言
っても大げさでないのが南三陸町です。南三陸町は、「津波が迫っています。逃げてください」と最後まで防災放送を続け自らは逃げ遅れた女性職員が話題になりましたが、その惨状は、テレビや新聞で見聞きし、感じていたのとまた違った衝撃的なものでした。
 人々は山が複雑に海に切れ込んだいわゆるリアス式海岸の狭い入り江に主に漁業を生業としてへばりつくように暮らしていましたが、それが、すべて無くなってしまったのです。  女性職員がいた防災センターや市役所があった志津川地区という町の中心部から、国道45号線を気仙沼に向かって行くと、海岸を縫うように4か所も5か所も港のある入江があるのですが、そこにあった人家など構築物は完全に消えてしまっていました。
 そのすさまじさは、海などどこにも見えないほど海岸線から入り込んだ場所でも、山肌に小さな船や車が突き刺さる光景に出くわすという有様でした。 いったいどれほどの津波が襲ってきたのか?
 清水浜という入江で、船3そうと車5台、家を失いながら九死に一生を得た、60代の漁師さんは「ワカメの出荷の準備をしていたときのことでした。びっくりするような揺れがあり、すぐに防災無線の津波警報で山の方の避難所に逃げたが、そこも襲われた、それからはみんなで必死で山登りをした。チリ地震でも大きな被害があったし、津波を侮っていたなんてことはない。女子職員の放送も切羽つまったものだった。防災無線も最近になって新しいのに変えたばかりだった。無線は地区全体に放送できるのと個々の家のなかにも設置されている。ところが防波堤も水門も何もかも役にたたなかった。
 無線は最初6メートルの大津波と言っていたが、実際は十数メートルあった。それがさらに十メートル以上も山をかけ上がった」と話していました。  この方が住んでいたのは海のそばでしたが、清水浜で犠牲になった三十数人はほとんど海から離れた家の人たちだったといいます。 想像もつかぬ場所にまで津波は押し寄せたのです。
 テレビや新聞では、人口17000人の町民のうち7割が被災したと言っていますが、そこをみた私 の実感としては「町の9割以上が消えてしまっている」としか思えません。死者は確認できたのは400人余りですが、行方不明者は3週間以上経っても「集計さえできていない」。小さな町なのに数千人が犠牲になったのです。生き残った被災者のうち8000人が高台の小中学校、集会所、民家など45か所に分散していますが、電気、ガス、上下水道も断たれたなかで衛生環境がいいはずはありません。果たしてこれが人間が一時的にでも滞在するようなところだろうかと思わざるを得ないほどにごった返した避難所もありました。臨時の町役場ではイスラエルからの医療チームをはじめ医療関係者の姿を多くみましたが、いくら医療関係者がいても人間がその尊厳を守るためにはそれなりの環境が必要なはずです。
 仮設住宅の建設も始まっていません。
 再び津波に襲われる危険のある平地を除けば仮設住宅の建設用地などあるはずなどないのです。すでに1000人近くが町内の避難所から、県内の別の地域に「集団避難」していますが、移転先でもほとんどは集団生活で個室が与えられているわけでもない。  なぜ集団避難した人々に個室が与えられないのか。なぜ仮設住宅を県外に大量につくらないのか。町というよりも国の無策に怒りがこみあげてきます。
 物資も自衛隊の大活躍などで、当初のおにぎり一個を分け合って食べたなとという状態から最低限の量の確保は出来ているようです。しかし、それは相変わらず最低限であって、酒やたばこなど嗜好品はもちろん、女性の下着や化粧水、また子どもの遊び道具等々、むしろないもののほうが圧倒的に多いのです。
 避難民は家も貴重品もすべてを津波にながされて着のみ着のままで逃げてきた人たちです。 物もなければお金もない。
 1000億円もの全国の募金も被災者にはまだ一円も支払われてはいません。 避難生活は今後も長く続きます。こうした過酷な運命にある避難民に少しでも人間らしい生活をしてもらいたい。そう考えて、団体や政府を通すのではなく私が現地訪問を通じて知りあった避難民に直接、物資を送ることを思いつきました。
 幸い宅配便のうち「クロネコヤマトの宅急便」 は南三陸町にも配達を再開しています。
これを読んでいただいた方も被災者に少しでも物資を送りませんか? もし、ご協力していただけるようでしたら何をどれぐらい送れるかについて私宛にメール
(s_yamagiwa2003@yahoo.co.jp)をください。
 避難民個人の住所(避難所)と氏名、携帯番号をお教えしますので、ヤマト運輸の宅急便でそこに直接配送してください。
 送付先には100人以上の避難民がいますが、避難民は別の避難所とのネットワークもありますので物資が多くなれば別の避難所に配ってもらいます。  ここにきて政府は声高に「復興」を叫び始めていますが、復興どころじゃない。現に体育館で雑魚寝をしている人々をどうするのか、ご遺体をどうやって収容するのか、復興などと浮かれたことを言う前にやるべきことはまだ山ほどあるはずです。
 避難所で夜を迎えて、4、5人の方とたき火を囲んで、大津波の恐怖や故郷への思いなどさまざまなことを語りあいました。そこには一切の騒音もあかりもなく、 空は満天の星でした。避難民の方は言いたいことはたくさんあるはずなのに誰も政府や行政に文句を言いません。運命を呪う言葉さえなかった。これが東北人なのでしょうか。 ダンボール一箱で結構です。どうぞよろしくお願いします。
(4月7日)         

 私が夜遅くまで語りあった避難民の世話役の方々です。写真下。

南三陸町の中心部だった志津川地区全景。真ん中を通る川の両サイドにあった建物がすべて消えています。 南三陸町から気仙沼まで同じ光景の連続でした。写真下。 

避難放送が行われた防災センター。赤色の3階建ての建物。海岸から200メートルほどしか離れていなかった。犠牲になった女性はこの2階にいた。屋上の手すりにすがりって助かった町職員もいる。電気を通すため電柱が急ピッチで立てられていた。 写真下。

避難所の入口に被災した子どものホームスティを受け入れるとの張り紙があった神奈川の人で「いっしょに学ぼう」と家族の3人の子どもの写真まで添えられいた。その心優しさにうたれました。写真下。


東京品川の廣瀬友之さんのレポート  平成23年4月17日

※自宅避難地域への支援に道を拓いてくれたのは、南三陸町の被災者で避難所住人であKさんや元漁師のOさんらです。「被災者が被災者を助ける」構図なのです。このう
ち、歌津の田の頭地区は、東京の廣瀬さんがKさんやOさんと一緒に訪問して支援を約束してきたものです。

以下は廣瀬さんのレポートですが、この間の経緯がよくわかります。


 南三陸町レポート 4月17日~
 仮眠を取りながら真夜中の東北自動車道を駆け抜けて、仙台南インターから日が昇る太平洋沿いの仙台東部道路に抜けると、右手に津波の爪跡が見えてくる。目的地の南三陸町までは、あと100km。進行方向右側の視界が開ける度に、3月11日、東北平洋沖地震の直後に発生した大津波によって太平洋側の街を余すところなく飲み込んだその被害が垣間見える。そして、カーナビの目的地までの距離を示す数字が減っていく度に、私の緊張感は反比例で増していった。  

 私と共に北へ向かう車も、すれ違う車も、自衛隊・警察、そして救援物資を積んだ車ばかりである。又、国道45号の一部が津波によって浚われている為、迂回路として利用する一般車両も増え、通勤ラッシュのように渋滞していた。ついに現場に足を踏み入れたことを実感し、深呼吸で自らの身体を宥めながら車を進めると、周囲の車両たちは石巻や東松島などのICで各々の目的地を目指すために散っていった。そして、南三陸町に至近のICを降りる頃には車両の数はまばらになっていた。  

 

 南三陸町・志津川の海まで15kmの道の駅で最後の休憩。訪問先に志津川中学校に出向くには少し早い為、待機していると、春の日差しの中、野良猫が誰からも構ってもらえないにも関わらずゴロゴロ喉を鳴らしながら、太陽に腹を向けて不貞寝していた。平和な風景で、私も一瞬気持ちが安らいだが、今回の道程の中では唯一の時間だったかもしれない。  

 私が被災地に向かった理由は、実はこんな新聞記事を目にしたからだ。4月4日の産経新聞の記事、「尽きた食料…信頼の分配、助け合う自宅避難民(宮城・南三陸町)」がそれである。避難所に物資が行き渡り始める一方で、大津波の直撃を免れた自宅で暮らす「自宅避難民」への支援が課題となっているという記事だった。であるなら、そのような境遇にある人に支援物資を持っていこう。特に誰に相談するでもなく、少しずつ支援物資を買出し、レンタカーの手配を行い出発の日を決めたのだ。

 

長野で行われた北京五輪の聖火リレーの際に知り合った、ジャーナリストの山際澄夫さんから連絡があったのは、出発の準備を人知れず殆ど済んだ後のこと。山際さんは、南相馬町と南三陸町を既に訪れ、被害の惨状を取材し、避難所での生活を余儀なくされている多くの被災者の方を目の当たりにしていた。
 山際さんの話を伺うと、心は決まった。私が兼ねてから気になっていた「一番困って
いる人がいるかもしれない場所」がそこであるだろうことが容易に予想もできた。では、そこに向かってみよう。私は、山際さんから今回の救援物資の受け手である世話役のKさんが避難生活を送っている南三陸町の志津川中学校を訪れることにしたのである。
 南三陸町は宮城県の北東部、鱶鰭の生産が日本一の気仙沼市の南にある人口17000人余りの町だ。他の三陸の町同様漁業が盛んで、志津川と歌津という地区に人口が集中している。太平洋に面した志津川湾と伊里前湾という二つの湾は、牡蠣や帆立、ウニ、ワカメの養殖が盛んで、三陸の典型的な港町だ。昔は養蚕も盛んだったという。又、夏には小規模ではあるが海水浴場や磯釣り場に、仙台などから人々が訪れ、国道45号沿いが賑わう。そんな町である。

  

 登米市と南三陸町を分ける境界を過ぎ海が近くなるのを確認すると、周囲の空気が一変する。津波が侵蝕したであろう境界を超えたのである。途端に猫が不貞寝出来るような、小春日和の暖かな風景は一変し、津波によって流されてきた拉げた車や漁船、瓦礫の山が視界に飛び込んできた。まだ地図で確認する限り、海までは3キロはある。そこから暫くして戸倉地区、そして志津川へ入っていっただが、残念ながら私がみた風景は、前述した街の光景ではなく、瓦礫と外壁などを身包み剥がされた鉄骨の建物だけが残る風景であった。 

 志津川中学校では、世話役のKさん御兄弟、そしてOさんが迎えてくれた。避難生活はもうすぐで40日を迎えるという。到着して、炊事場で炊事を行っていた女性の方々にも挨拶をし、荷物を下ろすと、すぐに私は炊き出しの昼食に誘われた。私は、昼食や夕食は道中で仕入れてきたと話し最初は遠慮したのだが、「物資の配達は午後だし、遠慮なんかすることないから」のKさんの一言を甘んじて受けてしまった。私が避難所について、まず行ったことはなんと「食べること」だったのである。

  その日の昼食は、海老名にあるモスクに集うムスリムの方々の炊き出しによるチキンカレーだった。そこの中学校の生徒も、もちろん避難所の方も、美味しそうにカレーを口に運んでいた。私は炊き出しを行っている方とも話をしてみた。彼らはパキスタンとインドネシア、マレーシアの方であったが、三陸の各地でチキンカレーの炊き出しを行っているという。彼らは今回の支援の理由を、インドネシアを中心に甚大な被害が出たインド洋大津波の際、多くのイスラム教国に日本が支援を行ってくれたこと、そして気仙沼を中心とした繊維会社に、様々な技術を学ぶ為に来日しているムスリムが相当数おりいつもお世話になっているので、今回は助けたいという気持ちでやっていることを説明してくれた。


  食事を終えると、私が自分で調達した物資、さらに地元の友人・後輩から託された物資、そして山際さんがHPで募集を掛け全国各地から送られた物資も数箱、キャラバンにつみ込む作業を始める。私が訪問した時点では、山際さんが募った物資は、中学校武道場の8畳ほどの空き部屋に一度集められるシステムになっていた。そこで一度荷物を集積し、大規模な避難所ではなく、比較的小規模な避難所を対象に物資を配っているのである。南三陸町では、現在でも45か所の避難所(4月16日時点)に、数千名単位の被災者の方が苦しい避難生活を続けているが、その比較的物資の行き渡っていないだろう場所に、山際さんの支援物資が3人の世話人の方の手によってに運ばれているのである。 山際さんの意に賛同し届けられてくる支援物資は非常に好評であると、世話役のKさん(弟)は話してくれた。女性用の下着、化粧水、乳液、ハンドクリーム、そして雑誌類など、通常配送されてくるような支援物資にはなかなか含まれないものが多いからだという。ただ、膨大に量があるわけではないから、適量をなるべく小規模な避難所配る。
 そういう場所であれば、殆どが長年のご近所さんなので物資の取り合いなどが起こらず平和裏に分配されるので安心というわけだ。口は決して良くないが情に厚く、決して自分だけが良ければ良いという考えは町にはないと世話人さんは話してくれた。私もそれを信じ、少しでもこの町の誰かの為になればそれでいいのだ。
 世話役さん3人と、どのような場所に荷物を運ぼうかという話になり、私の希望を話をした。前項に書いた「自宅避難者の元へ」という件である。世話人さんの一人のOさんが、「被害も確認できていないので行ってみたい」という場所を口にした。それは中学校から15Km程離れた隣町である歌津から突き出た岬の付近の集落だった。Oさんは、震災以降安否の確認はしたものの、その後は連絡を取っておらず連絡を取ることにしたのである。携帯電話が繋がり、Oさんが電話を始めると、先方からは「物資を受け入れたい」という回答だった。 受け入れ先のAさんが住む地区の状況は、以下の通りだ。  「100世帯150人程度の集落なのですが、6割程の家が流され残った家に自宅避難という形になっています。電気・ガス・水道は復旧の見込みはありません。家は無事でも車が流されている人が多く思うように動けません。又、自宅避難者には基本的に救援物資はもらえません。食べ物は多少配給されるようになりましたが、生活物資全般が不足しています。今は、本当にきつい状況です。職業は皆漁師ですが、瓦礫が多すぎて漁の再開が出来ません。早く再開して直ぐにでも出たいですが、現状は非常に厳しいと思います。」  

 

 すぐにこの場所に今回の物資を運び入れることが決まった。少しでも困っている人のところにという思いで現地に入ったが、震災から一カ月を経過してもなお、そのような境遇にある人が存在するのだ。そのような境遇にある被災者の方は他にも必ずいるはずだが、一先ずすぐに向かう事を約束して電話を切ると、その集落へと向かった。キャラバンは、国道45号を気仙沼方面に向かう。国道と言っても、アスファルトが津波に浚われ自衛隊などが救助・物資輸送などの為に緊急的に補修した、所々砂利道のオフロードのような道である。しかし、このルートは被災者の命をつなぐ道であることには違いない。前回までとは言わないまでも、今地盤が沈下してしまった状況で津波が襲ってきたら、間違いなく再び寸断されるだろう。 さらに気仙沼方面に進むと、世話役さんも今まで確認していなかったという被害の光景が目に飛び込んでくる。そして、一人の方がこう呟いた。「Hさん、復興は無理かもしれない…」。その言葉に私は言葉を返すことが出来ないでいた。テレビで流れるCMでは、有名スポーツ選手やアイドル、芸能人が「勇気」「希望」「絆」「一人じゃない」「頑張ろう」というものの、被災地においてはそんな言葉が完全に宙を浮き、泡のように弾けていく。それくらい、絶望的な風景。これが延々と続くのである。 

 

 志津川の街の出口から清水浜という小さな集落を過ぎ歌津まで国道45号を使うと約8キロある。しかし、そのうち津波に侵蝕されずに済んだ箇所は、標高が30m以上ある箇所、2km程の箇所だったようだ。その途中では、遥か頭上の太い木の枝に布団が引っかかり風に揺れていた。布団を運んだのは誰でもなく他でもない津波なのだが、助手席に座り飛び込んでくる光景があまりにも非日常過ぎて、途方に暮れるという以外のことが出来なかった。 「既に昔の風景を忘れそうになっているよ」。車の中で、もう一人の方がこうも呟いた。津波は人の命や財産だけでなく、昔の記憶や思い出も消し去っていくのだ。色々な思いが心を渦巻き、最初の「復興は無理だ…」と呟いた世話人さんの言葉にまともな反応も出来ず、言葉も返せぬまま、岬の先端を目指すキャラバンは国道45号を逸れ、現時点で岬に通じる唯一の狭い道に入って行った。それにしても、ここまで言葉に出来ないという感覚に襲われたのは、本当に初めてかもしれない。      

 さらにその先、岬に奥の集落に入る最短距離のルートは津波に襲われた挙句、地盤沈下を起こしており、手の施しようがない程に破壊されていた。迂回ルートを目指し、途中途中は非常にアップダウンの激しい道が続く。仮に家が無事でも、車が流されたら移動は本当に困難である。そして、その道すがら、右手に伊里前湾と志津川湾、左手に僅かに太平洋を望めるポイントを通り過ぎた。抜けるような青空に、穏やかな波の真っ青な海、海と空がその青さを競っているかのように思えた。その海が、あの日、たった一日だけ狂気と化したのだ。私なら、どんなに恨んでも足りないくらい海を恨んだかもしれない。 ここまで書いてしまったので、既に述べておこうと思うが、私がこの一日半で出会った人の中で、「海」について恨めしいという感情を表した人は一人も居なかった。復興は無理だと呟いた世話役さんも、「落ち着いたらサーフィンも始めるし、釣りもしたいね」と後に話してくれた。南三陸に生きる人々にとっては、何があっても海と共に生き、そして死ぬ。もし、「海」を恨んでしまったら、自らの存在を否定する事と同意であり、死ぬことと同意なのかもしれない。
 

 今回、物資を運んだのは振り返ると海が一望できる素晴らしいロケーションの民家だった。前述のとおり、その周辺に暮らす方は150人前後、約6割の人が家を津波によって失い、そして自宅待機や小さな集会所に寝泊りするという形で、避難生活を続けている人々だった。もちろん、私の訪問した時点では電気は復旧していなかった。水道に至っては復旧の見込みは絶望的であるという。 到着すると、これぞ海の男というような男性陣が何人も待ち構えており、歓迎してくれた。地元の友人が用意してくれたお菓子類もトイレットペーパーも、すべて歓迎してくれた。これから、又、周りの人も呼んでしっかりとシェアをしていただけるという。
 そして、ひとまずキャラバンに積み込んだ物資を積み下ろすと、一人の漁師の方が私にこう言った。  「どうにかして、発電機が手に入らないものだろうか…。それがあれば、瓦礫を掻き分けてでも、漁に出ようと思うんだが…」  
 発電機は、地震の翌日から東日本を中心に手に入らない状態が続いている。地震直後、原発の事故が明らかになって電力不足の危険が広まってから、ネットでもどのようなツールを通じても手に入らなくなってしまっている。その場で、私もどうにかしてという思いで、山際さんにその場で連絡を取ってみようと思ったが、現時点では如何様にも難しいという判断で電話をすることをやめた。  「漁師は、海を見ていなければ死んでしまう」  先日、東京・永田町でお会いした歌津出身の女性がそう言っていたが、それは大げさでも何でもなく、本当なのだろう。そして、その一方で、そこまで仕事に夢中になって
打ち込める、漁師さんの気持ちの強さと、私自身の至らなさを反省してみたりもするのであった。そして、その住宅の男性から、お名前と住所と電話番号を伺うと、今後、こちらにも救援物資の拠点とさせて頂く事を約束し、その場を離れた。以降、多くの方の善意が満載された救援物資は、一日数箱の単位で集落の方々の元に届くようになった。
 

 今回、自宅避難者の方を対象に支援物資を持っていこうと東京を出発し、現地で困窮している被災者の方を目の当たりにして、今回の物資の送り先は間違いがなかったこと
は確信している。しかし、自宅避難者や小規模の避難所にしっかりと物資が行き渡っていない現状を、なぜマスメディアが報道出来ないのか。そして、行政もなぜその現状認識を持つことが出来ないのかという点では、大きな危機感も感じた。  岬の果てで困窮する被災者は、復興という以前の問題、いわば如何に食料を手に入れサバイバルをしていくのかという、最もレベルの低いフェーズから抜け出せないままでいるのである。確かに、南三陸町という町が、行政も津波によって多くの被害を被ったことは紛れもない事実である。一時は、役場に保管されていた住民票も行方不明になり、一体誰が被災し亡くなられ、そして誰がどの場所に避難をしているのかという情報が完全に寸断された状況があったことも事実である。言うまでもなく役場は、その全てが津波に浚われ原型を留めず、鉄骨で作られた防災庁舎では、再三再四テレビでも報道された町の防災管理課の女性をはじめ多くの方が犠牲となってしまった。佐藤仁町長もまた、防災庁舎のアンテナにしがみ付いて津波に耐え、そして寒中吹き荒ぶ中を一日耐え抜いて生還した被災者である。(そのような意味で考えれば、行政のリーダーである町長が犠牲になった岩手県・大槌町なども同様の危機を抱えているのではないだろうか)

  しかし、その大きなビハインドを差し引いても、一ヶ月半に渡って自宅避難者の生存権すら危うい状況に晒されている現状は、やはり納得できないものを感じざるを得ない。日本が先進国として世界に誇れるほど成熟していないのか、それとも、今回の東日本大震災によって齎された被害が何を疑うでもなく「想定外」だったのか。この結論が出るには、しばらく時間がかかるのだろう。 偉そうな口を聞くなと叩かれる前に、再び救援物資を南三陸町に持っていこうと計画している。次回はゴールデンウィーク、生鮮食料品を中心に持ち込むつもりでいる。取りあえず、今はそれしか出来ない。そして、自分の無力さを痛切に感じるとともに、何よりも強力な「当事者意識」と「危機感」を持って、被災者の方と一緒に、痛みをシェア出来たらと考えている。
   以上

2012年3月11日日曜日

管理人の日記

〇「今」を伝えるブログ
 東日本大震災から今年で丸3年を迎えます。この「ダンボール一箱」支援は、自治体やマスコミなどは通さずに直接、被災者に宅配便を届けることを呼びかけてきたものです。すでに、支援の呼びかけはしていませんが、活動記録としてブログを残しています。常連さんの支援はその後も続いています。被災地の世話人さんからも連絡がきます。被災地の「今」を伝えるブログのひとつとして活用してください。(平成26年1月)

気軽な立ち寄り場所
年が明けて東日本大震災から1年10カ月を迎えます。この「ダンボール一箱」支援は、自治体やマスコミなどは通さずに直接、被災者に宅急便を届けることでスタートしました。はっきり数は分かりませんが、実数で1000人の人が支援に参加されたものと思われます。震災一年を区切りに、支援の呼びかけはしていませんが、支援そのものは常連さんによって細々と続いています。また、時たま、現地世話人さん(被災者)から要望があって、支援を呼びかけることもあります。今後とも支援関係の情報集積所、気軽な立ち寄り場所として利用していただければと思います。(平成25年元旦)


新しい生活に立ち向かう被災者
東日本大震災から1年7カ月です。「ダンボール一箱支援」は、ほそぼそと続いています。情報が少ないなかで、なお継続して支援していただいている方がおられるほか、直接、支援物資を運ばれるケースもあるようです。現地世話人さんはそれぞれ新しい生活に立ち向かっておられますが、様々な困難にも直面しているようです。ニュースがあればアップします。たまには本サイトをチェックしてください。また、支援されたい方は遠慮なくお問い合わせください。
(10月11日)


細々とまだ続いている。
みなさんこんにちは、もうすぐ7月です。被災地は二度目の夏を迎えようとしています。昨年の今頃は、歌津でかご漁が始まるとか、仮設への移転が徐々に進むとか、いらいらしながら支援活動に全力を挙げておりました。あれから一年を経て復興の兆しが見え始めたところもありますが、一部の方を除いて人々に定職はなく、集団移転の見通しも立たず、不安な毎日を送っているのは何も変わっていません。土木事業などの復興需要での景気回復が伝えられますが、被災者の生活という角度でみると何も変わっていない。むしろここにきて希望を失う被災者も多いようです。
そうしたなかでこの「ダンボール一箱の支援活動」は、リピーターさんによって細々と続いてきました。また4月には被災地との交流の一環に歌津のワカメの販売も行ってもらいました。
震災からこんなに時間が経過していながら信じられないことですが、「復旧復興は遠い」のが実情です。
支援をされたい方は遠慮なくメールでお問い合わせください。
(6月21日)

あれから一年
支援者の皆さん、世話人さん、お変わりありませんか。
「3・11」がめぐってまいりました。一年前支援の申し出が殺到して、パソコンに向かっていた日々が思い出されます。
被災地はこのところ鎮魂と追悼の日々のようです。お寺さんが間にあわないため、毎日、繰り上げで法要が行われているそうです。埼玉の方の提案で急遽、そのための 礼服が送られました。あれから一年、支援は今も続いています。皆さんのお陰です。特に世話人さんには頭が下がります。
世話人さんにメッセージ「私たちは負けない」をお願いしました。それを読めば「復旧 復興未だし」ですが、それでも少しずつは進み、物資支援も、「『なければ生きていけない』から『あれば助かる』」に変化しています。支援は、我々日本人が「被災地を忘れない」ことの証です。心の励ましです。今後とも支援で得た縁を大切に様々な形で被災地との「交流」を続けていきたいと念願しています。
(3月6日)

○「ダンボール一箱」の支援活動に参加していただきありがとうございます。
ささやかでも何かをしなくてはと昨年4月に切羽詰まった思いで始めた支援活動でしたが、こんなに 支援が続くとは思ってもみませんでした。皆さんのお陰です。早いもので、来月で東日本震災1周年を迎えます。被災地は集団移転も決まらず、津波被害土地の利用プランもなく、一見何も変化がありませんが、復興庁も誕生し、今後は復旧復興も少しは加速していくものと思います。 支援はいまも継続しています。これから先の支援をどうするかについては、支援者の皆さんや世話人さんのご意見をうかがいながら決めていきたいと考えています。 また、以前から「現地の世話人さんとの交流集会を開いてほしい」「海産物を購入したい」等々の声をいただいています。 ご意見がございましたらご一報ください。
(2月14日)

○新年、あけましておめでとうございます。新しい年が被災地東北と日本にとって素晴らしい年になりますようにお祈りしたいと思います。政府の震災対策は3次に渡る補正予算で巨額の資金が投入されているはずですが、現地を見る限り地域での生活が復活している証拠はありません。「復旧復興は遠い」としか言いようがないのです。
復旧復興が遅れることでこれ以上住民の流出に拍車がかかるようなことがあってはなりません。そういう事態とならないように青年、学生にはもっと東北に行ってもらいたい。事業者にももっと進出してもらいたい。政府にも国民にも「東北こそ日本再建のフロンティア」だという認識が必要です。
この支援活動は、個人が出来る被災地への〝励まし〟です。日本人が被災地を忘れていないことの証です。新年もささやかでも支援を続けたいと思います。
(1月1日)

○【師走です】
支援者の皆さん、被災者の皆さん、この一年、支援プロジェクトにおつきあいいただきまして本当にありがとうございました。被災地を4月の上旬に訪れて、避難所にささやかな支援でも出来ないかと考えて呼びかけたこのプロジェクトですが、「3・11」から9カ月を経てなお続いています。支援先も、たった一カ所の避難所からスタートしたのものが、南三陸町のかなり広い範囲、さらに南三陸のお隣、気仙沼市の本吉町へと広がりました。
支援に応じていただいた皆様方と、被災者で支援物資を配布していただいている「世話人」の皆さんには感謝の言葉がありません。
「3・11」は、私たち同時代を生きる日本人にとってまさに国家的な危機でした。しかし、この非常事態での日本人の振る舞いは、世界中で称賛された通り誇るべきものだったと思います。
「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ」という言葉で知られるフランスの外交官、ポール・クローデルは、関東大震災での日本人を見て、その控え目な態度、不平を言わない
慎ましさを驚きの言葉で綴っていますが、私が、被災地をみたり、支援のお手伝いをさせていただいたりして感じたのも被災者、支援者双方の思いやり、助け合いといった精神の高貴さです。
この高貴さこそ、日本が世界に誇る日本精神であると信じます。
寒さはこれからが本番です。
皆さんお元気で年末年始を過ごされますようにお祈りします。
(12月5日)

○【11月を迎えて・・】
あっという間に11月です。
前月から警告していた宮城県の「寒さ対策」はようやく始まりました。
暖房器具は何が必要か仮設入居者にこれからアンケートをとるようです。役所のやることはなぜこんなに遅いのかと思います。 先日、東京・駒沢で行われた、泊浜漁協の女性部によるホタテキャンドルの販売会に顔を出した際、泊浜の女性数人と立ち話をして改めて被災地の大変さを痛感しました。責任者の女性部長のMさんは、津波で魚貝類の加工業だったご主人がなくなり、家も流されましたが、少しでも自主自立をと女性たちに呼び掛けて始めたのが津波を免れたホタテの貝殻を使って、ホタテキャンドルでした。
Mさんの最大の悩みは工場を再開したいが、費用の工面がつかないということでした。中小企業再建に費用の三分の二まで払ってくれる仕組みがあるのですが、申し込んだが予算がなくて選に漏れたということです。
また、別の女性は、船が流されたが、家は残ったということで義援金はなく、船の保険はおりたが、将来を考えればとても使えない。これは私も前々から思っていましたが、家があると言うだけの理由で「義援金ゼロ」はまったくおかしな話です。
また、政府の三分の一補助という制度はあるが、自分で全額立て替えて、その上で、三分の一を補助してもらうという仕組みで、その建て替えが出来ないとおっしゃっていました。船をつくるには5トンで3000万円かかるそうです。
その結果、漁師さんで海に出れるのは養殖業も含めて現状では「半分以下」。というわけで漁に出られない方の収入の柱はがれきの処理でしたが、もともとがれきの処理は、一世帯に一人とか制限がありましたが、今は予算がなくなったらしく、事業そのものが10月でストップ
しているようです。 また、女性たちが一様におっしゃってたのが、家がある人は固定資産税など普通に払っているというのです。もともと固定資産税は支払い能力に関係なく課税されるものですが、これおかしくないですか。
政治家の目はふし穴なのでしょうか。開会中の臨時国会で第3次補正予算(震災関連は9兆円)が成立すれば、中小企業主の再建支援、被災地宅地の買い上げ、住宅の集団移転などで大幅な進展があるものと思われます。
しかし、集団移転のプラン作りなど白紙の部分も多く、予算が目的通り執行されるにはまだまだ時間がかかりそうです。
というわけで引き続き出来る範囲での支援をお願いします!
(11月2日)

10月に入りました。
先日、国会で小泉進次郎議員(自民)が仮設住宅の「寒さ対策」を質問していました。
平野復興担当相が「断熱材、暖房器具なども含めて自治体でやっている」と答弁していましたが、入谷の世話人さんにメールで聞くと、「聞いてません」との返事。2日ほどして読売新聞に真相が報じられました。 <遅れる寒さ対策、宮城県はゼロ>。それによると、断熱材の追加工事で、岩手、福島が28・6%、7・3%に対して宮城はゼロだというのです。いったい何をやっているのか、震災発生以来、政府のやっていることは一事が万事このありさまで、被災者のことを本当に考えているのかと思います。気仙沼の世話人さんによると、被災地はこのところ急に冷え込んでいてもう炬燵を使っているそうです。
これからは「食料」とともに「寒さ対策」に的を絞った支援が必要なようです。嬉しいニュースもたくさんあります。歌津、戸倉の世話人さんら漁師さんはサケ漁に出漁しました。
7月から行われたカゴ漁に次いでの大漁を祈っています。
また、入谷の世話人さんは、念願の美容室の営業をトレーラーハウスを改造して始めました。間もなく震災7カ月。引き続き被災地を見守っていただければと思います。
(10月1日)

9月に入りました。
まもなく震災から半年を迎えます。
南三陸町、気仙沼では避難所の被災者は一部を除いてほとんどが仮設住宅か借り上げ住宅に移りました。
それと同時に食糧などの支援は打ち切られました。
いよいよ「自立」に向けて、地域全体の取り組みが始まったことになります。しかし、復旧・復興が遅れているなかでどこまで自立が可能なのか。不安だらけというのが被災地の現実です。特に高齢者にとっては、仕事がないのはもちろん、車がある人は別にして「買い物すら満足にできない」、「話し相手もいない」のが現実です。
 実際に現地からの支援レポートを読んでも、見た目、がれきの処理こそ進んできたようですが、津波で流された部分は草が生えているだけで何もありません。 そこをどう利用するのかという復旧・復興のグランドデザインすらありません。
はっきり言って「復旧・復興など遠い」と言わざるを得ません。
 こうしたなか、支援の需要は仮設住宅への大量入居と公的支援の打ち切りもあって一時的に増しています。まだまだ支援が必要なことは、世話人さんが送ってくれる写真や支援物資を受け取った被災者の礼状に明らかです。いつまで支援が必要なのかは分かりませんが、東北の再生なくして日本の再生はありません。「ダンボール一箱」の支援を喜んで受け取っていただける方がある限り、支援の申し出がある限り細々とでも続けて行きたいと考えています。どうぞよろしくお願いします。
(9月5日)

8月に入りました。  
 現地の様子を探るために8月3日、南三陸と気仙沼の世話人さん(被災者の方です) 宅を訪問しました。世話人さんは様々な問題を抱えているはずなのに、皆さん元気いっぱいで胸が熱くなりました。
繰り返し支援の御礼を言われました。
ある世話人さん家族とは、支援者の方の話に花が咲きました。私が支援者について、「どこそこの」というと、「○○さんですね」と記憶されていて大いに盛り上がりました。 また、別の世話人さんはがれきのなかから奇跡的に見つかった家族の写真とともに、物資の受け取り状を保存していただいていました。
支援者が、親類に送るように大事に送られた支援物資は、こうして大事に世話人さんに受け取っていただいていることが確認出来ました。
支援者の皆さんにも、世話人さんにも感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、5カ月経った現地ですが、「お盆までに全員仮設に」という公約のためかちこちで仮設住宅の突貫工事が進められていました。
 しかし、いま建設中の仮設は見るからに安普請のものもあって、被災者は入る前から不公平感を感じているようでした。また仮設への入居は、「食糧支援の打ち切り」が条件です。
 問題は、被災地は漁を再開出来た漁師さんらごく一部の方を除いて定職がないことです。
津波に洗われた海岸沿いの土地の使用方法も決まっていません。
 こうした状況ではわずかばかりの義援金はもらっても、将来の不安ばかりが先だってしまうのも無理はありません。
 仮設住宅は辺鄙なところにあって、車がないと食糧の調達すらままなりません。 特に高齢者は、厳しい状況にあります。
 また、仮設はこれまで住んでいた地域とは無関係に割り振られました。
支援打ち切りと孤独から 年寄のなかから死者が出るのではないかと心配する声もありました。
 政府の復旧、復興プランが一日も早く大きく動き始めなくてはなりません。
 しかし、私たちもわずかでも支援を継続していきたいと思います!
漁師さんには、我々も水揚げを産直で買えないかと話してみましたが、現状では仲買いさん との関係もあり無理なようです。
 
(8月3日)

〇早いもので7月に入りました。
「3・11」の衝撃が遠いことのようにも思えます。
菅直人首相は「最初の一週間は眠れなかった」(6月27日記者会見)と語りました。しかし、被災地では今なお、多くの方が避難所でぐっすり眠れない日々を過ごしています。
他方、仮設住宅に移られた方は、「自立」を迫られていますが、定職はほとんどなく、がれき処理など、わずかなアルバイトと義援金の分配金で食いつなぐ再スタートを余儀なくされています。
 生活の見通しが立たないという意味では自宅避難者も事情は変わりません。こうしたことが高齢者などにより過酷な環境であることは言うまでもありません。間もなく震災から4カ月を迎えますが、被災者にとって厳しい現実は何も変わっていないのです。
テレビや新聞には「復旧・復興」の文字が飛び交っていますが、被災地にとっては「この夏をどう乗り切るか」が大きな課題なのです。
こうしたなかで行われた漁業の再開は大きな希望です。漁師さんの笑顔の素晴らしさがすべてを物語っています。
東北を支えることは日本を支えることです。私たちは、これまで南三陸町と、南三陸町と深いつながりのある本吉町で物資支援を行ってきましたが、今後も可能な範囲で支援を続けていきたい
と思います。
(7月1日)